七夕(たなばた)の由来
7月7日といえば「七夕」。
織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)の伝説が有名ですが、この伝説は、日本と中国のいくつもの伝説や風習が融合して生まれたものと言われております。
七夕の由来は中国の詩歌
「織姫と彦星が1年に1度、天の川を渡って逢瀬を交わす」というロマンチックなお話が有名です。
このお話の由来は、中国最古の詩集「詩経」に書かれた詩歌が基になっていると言われています。
日本でいう織姫「織女(しょくじょ)」と彦星「牽牛(けんぎゅう)」の名前が登場しますが、その後、中国の六朝時代の詩集「文選」の「古詩十九首」になって悲恋の要素が加わったとのことなのです。
「織女」は「天帝」という神の娘でした。
神々の着物を織るのが仕事で、まじめに働く姿を見た天帝は、天の川の対岸に暮らす牛飼い「牽牛」を引き合わせ、やがて2人は結婚しました。
ところが、結婚した後、2人は遊び呆けるばかり。
おかげで神々の着物はボロボロになり、牛は病気になってしまったとのこと。
それを見て怒った天帝は、2人を天の川の対岸に引き離してしまい、年に1度だけ会うことを許すようにしたというお話です。
機織機が「たなばた」となった
一方で、日本古来のお話で、棚機女(たなばたつめ)」という伝承があります。
これは「棚機女」と呼ばれる乙女が水辺の「機屋(はたや)」で神のための着物を織って供え、豊作を祈るというお話でした。
その織り機の名前が「棚機(たなばた)」でした。
この日本のお話と、先の中国伝来の七夕伝説が「棚機女」と融合し、「七夕(しちせき)」の漢字に和語の「たなばた」が当てられたと考えられています。
短冊ではなく「糸」だった
日本では七夕といえば、笹の枝に願い事の書いた短冊をつけて祈ることが風習となっています。
もともとは、笹竹につけていたのは、短冊ではなく、五色の糸であったという謂れがございます。
五色は「青・赤・黄・白・黒(紫)(しょうおうしゃくびゃっこく)」を表しています。
これは、仏教では施餓鬼旗、あるいは五色旗と呼ばれるものと酷似してます。
施餓鬼旗は、「緑、黄、赤、白、紫」としております。
そういえば、オリンピックの五輪旗も五色ですね。
話を戻しますと、もともとは短冊ではなくて、この五色の糸を笹竹に結んでいました。
これは、先の「棚機女(たなばたつめ)」の伝承から来ているものと考えられています。
もう一つの昔話
関西地方、四国地方では、別の伝承がございます。
「まんが日本昔ばなし」に香川県の昔話として紹介されております。
昔、ある所に焙烙(ほうろく)売りの若者がいた。
ある日のこと、若者がいつものように焙烙を売り歩いていると、湖で娘たちが水浴びをしているのに出くわした。湖畔の松の枝には、目も覚めるような美しい着物が掛けてある。若者は、どうしてもこの着物が欲しくなり、一人分の着物を取って行ってしまった。
夕方になり、若者がまた湖に戻って来ると、そこには一人の娘が裸で泣いている。若者は、この見たこともないような美しい娘に一目惚れしてしまった。そこで、着物がなくて帰れないならオラの家で一緒に暮らしてくれと言い、この娘を嫁にしてしまう。若者と娘はそれから仲睦まじく暮らし、二人の間には子供までできた。
しかしそんなある日、嫁は天井の梁に吊るしてある包みに気づき、これを開けてしまう。その中には、嫁が湖で取られた着物が隠してあったのだ。嫁はこの着物を着ると、戻って来るよう懇願する若者を後にして、子供を抱えて天に昇って行く。嫁は、自分に会いたかったら草鞋(わらじ)を千足編んで、竹の根元に埋めるよう若者に言い残した。
若者は、それから嫁に会いたい一心で草鞋を編み始めた。ところが、千足に一足少ない九百九十九足の草鞋を竹の根元に埋めたため、地面から伸びてきた竹は今一つの所で天には届かなかった。そこで若者は天にいる嫁を呼び、嫁の手を借りてどうにか天に昇った。
ところが天にいる嫁の両親は、自分たちの許可なく娘を嫁にした若者を快く思っていなかったのだ。それで父親は事あるごとに若者に難題を吹っかけてきた。ざるで水を汲むという難問は、嫁の知恵でざるに油紙を敷いてクリアしたが、今度は畑の瓜を褒美にやるという。但し、瓜は必ず縦に切れと言うのだ。若者が言われた通り、畑の瓜を縦に切ると、何と瓜からは水があふれ出し、その水は天の川となって若者を押し流してしまった。
流される若者に向かって、嫁は七日に会いましょうと言うが、若者がこれを七月七日と聞き間違え、二人は毎年七月七日に、天の川をはさんで一日しか会えなくなってしまった。そして、これが七夕の始まりだということだ。
(まんが日本昔ばなし〜データベースより)